最近、新潟市内でもツイッター関連の本をたくさん見かけるようになりました。
ツイッターの解説などを見ますと、今なにをしているのか、140文字以内の文章で投稿(これを、ツイートっていいます)すれば、ツイッターで繋がっている友人や知人や自分の書き込みに興味を持ってくれた見知らぬ人に自分の近況を伝えたり、相手の近況をも知ったりしながら、いま世界でおきている情報をリアルタイムで知り合うツールということでしょうか。
なんだか、わかったような良くわからないような感じですね…。
ツイッターを知ったのは、今から2年くらい前になりますが、その当時、「今、なにをしているかつぶやいたり、誰かがつぶやりたりしたことを読むことが楽しいのかな??」と思いました。それから、時が経ち、友人より、同じ共通の趣味を持つ人が集まるコミニティのツイートなら、役立つと教えてもらい、それから、楽しさがわかってきました。
私が感じたツイッターの楽しさ、それは、
・140文字以内で書かなくてはいけないので、なにかのお知らせであれば、要点が簡潔にならざるをえない、また、ジョークであれば韻を踏んでいたり、どこか言葉あそびを含んでいて、俳句のように短いながらも、どこかテンポがあり、楽しい感じがしました。
・ブログなどより、書くということに敷居が低いので、改まって書くものではない ぽっと書いた書き込みに、人としてのとても自然な感じや、ときにばかばかしいながらも、面白い書き込みを目にすることがある。
・まったく知らない人でも、書き込みに興味をもったら、リンクできる(フォローする)。また、興味がなかったら、リンクを解除できる(リムーブ)。
誰かの書き込みに心が動いた時にその書き込みに返信をしても良いし、しなくても良い気軽さ。
・書き込んでいる人が以前、どんなことを書いているのかを一覧で見ることができるので、炎上や議論を戦わせることが、今のところはない。
など。
しかし、昨今のブームにより、様々な人が、理(ことわり)や良さを理解しないまま、大量につぶやき、たくさんつぶやくことこそがスゴイんだといわんばかりの人が増えてしまい、とても残念に感じております。
その結果、まるでチャットのようであったり、ブログで書いたようなことを小分けにして連続でつぶやりたりで、以前にあった節度をまもった書き込み(多くても1時間に1、2ツイート)、俳句のような遊び心、文字あそびのような楽しさを感じることが少なくなってきています。
とにかく、やってみるという姿勢はすばらしいと思いますが、そこにある理、良さ、美しさを知らぬまま、知らなければなにをしても良い、そして、大切な理を破壊していってしまうところに、なにか日本人のいけないところをみた様に感じました。
今後、どんな風になっていくかは、多数派が作っていくことになりますが、
今までの良さを失わず、新しい良いことは取り入れて、成長していってほしい、と思ったツイッターでありました。
とマジメなことを書きながらも、ツイッターではとりとめもないことを楽しくつぶやいております。